【書評】微睡みのセフィロト(冲方 丁)
人類(感覚者)と超能力者(感応者)の存亡をかけた戦争から17年、確執を抱きながらも両者は共存していた。
そんな中、とある要人が300億に《混断》される”人質”事件が起こる。
戦争で妻子を失い、思考・感情・記憶を管理されることで正気を保つ捜査官のパット。
そして”世界の敵”の娘、感応者のラファエル・リー・ダナー。
彼らは未来を守り抜くため、事件の捜査に乗り出す――。
冲方 丁の作風
本作の著者、冲方 丁はSF作品『マルドゥック・スクランブルシリーズ』をはじめ、ラノベ作品『シュピーゲルシリーズ』、アニメ脚本『蒼穹のファフナー』、近年は歴史小説『天地明察』を書かれています。
しかし彼の作品のテーマには人種差別、身体障碍、宗教紛争など、社会問題を多く取り扱われています。特に『シュピーゲルシリーズ』は上記3つの社会問題を取り上げており、ライトノベルとしてはかなり重い作品です。
またその社会問題を明確にするため世界観がしっかりとしています。しかし設定がかなり凝られつつ説明が少なく、加えて造語も多いため、人を選ぶ作風です。
ですが、それらはあくまで作品世界を補強するもので、好みに合えば、簡単に物語に没頭するでしょう。
『微睡みのセフィロト』の書評
『差別』という名のコンプレックス
本作『微笑みのセフィロト』では、人種差別をメインテーマに書かれています。
ミュータントを描く作品の社会構造は大きく2つに分けられて、
- 強烈な差別がある社会(『X-MENシリーズ』など)
- 融和成功後の社会(『僕のヒーローアカデミア』など)
これらが挙げられると思います。
理由として、前者は被差別者(ほとんどはミュータント側)の怒りを表現させるため、後者はミュータントの社会を表現するためです。
人種差別を取り扱う場合、主に前者が用いられますね。
そのテーマを伝えるため、人類とミュータントの日常生活で差別を描く作品が多々あります。
しかし、本作ではそういった市民の日常生活の描写はありません。
……かなり珍しいんじゃないでしょうか。
人類たる感覚者が、ミュータントたる感応者を、貶したり、粗末に扱うような差別の描写自体もほぼないのです。
寧ろ体制に属している感応者が感応者を貶すシーン、感応者が感覚者を見下すシーンの方が多いくらいです。
暗黒時代の魔女狩りでは誰もが朗らかに振る舞い、笑って歌いながら魔女を焼く。悲しげな顔をする者には同じ魔女の疑いがかかるからだ。パットはそれをよく承知していた。 ――『微睡みのセフィロト』より抜粋
この作品は、差別自体を非難したり、被差別者の怒りだけがテーマの作品ではありません。
『微睡みのセフィロト』は被差別者のコンプレックスがテーマの作品だと、私は感じました。
感応者への差別はあります。それを裏付ける描写は、彼らのコンプレックスで伝わってきます。傷をつける行為を書くのではなく、傷がついた形跡を書いているのです。
そしてその傷がコンプレックスとなり、そのコンプレックスが憎しみとなり、両者の対立を深くします。
自分を見つめること
本作の主人公パットは戦時中、感応者の中心的人物〈女王〉の超胞体兵器によって妻子を失います。しかもただ死ぬのではなく、粘液状にされ、混ざり合った状態で。それを見つけた彼は、拳銃の銃口を頭に当てて、引き金を引く。
そんな夢から目覚めたところから、物語はスタートします。
彼の体は幾重にも改造を重ねられており、精神もかつてのボロボロの状態から回復していました。
……その顔のどこにも疲労や倦怠の影はない。かつてすり切れ果てた精神は回復されていた。多くの都市が廃墟から復興したように。 ――『微睡みのセフィロト』より抜粋
事件を聞きつけ現場に急行すると、300億個に《混断》された経済数学者がいました。
そしてその場に、感応者の教育機関(おそらく……)であるヴァティシニアンからの使者に、犬を連れた少女が現れます。
名前はラファエル・リー・ダナー。強力な感応者でもあり、捜査経験もある彼女は、現場の状況をみて他の捜査官では見つけられなかった手掛かりを複数見つけます。
優秀です、その上可愛いです。
しかし、後にパットの上司から、彼女は〈女王〉の娘であることを聞きます。
その時、パットと5人の選りすぐりの捜査官は思考と感情をロックされます。なのに、その感情と思考には僅かな乱れが生じました。
先にパットの精神は回復したと言いました。しかし、それは組織に思考と感情と記憶を管理された故の産物で、彼の精神は回復しただけで前へと進んでいなかっただけでした。
しかし管理下にあるパットは、平常の心持ちでラファエルと捜査を進めていきます。
その中で彼女のことを知り、敬意を覚えつつも、しかし彼女の母が〈女王〉であるために憎しみで思考と感情が時折ロックされます。
彼は、自分のことをようやく見つめ始めます。自分ではどうしようもできない憎しみを自覚します、仇の娘である可憐で誠実な少女を通して。
この物語は、自身の憎悪と悔恨から逃げたパットが己を見つめ直し、成長していくストーリーでもあります。
最期に
本作はハヤカワ文庫だと本編が213Pの、かなり読みやすいボリュームです。
SNSの発展に伴い、他人の怒りや憎しみが目に映りやすく、伝播されやすい近年。
本作がその憎悪を断ち切る一助になれば幸いです。